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イースタンの建築家たち

 イースタンの建築家たちは、すぐれたスケール感覚の持ち主である。 
 建築のスケールを大きくしていくと、構造の重要度が幾何級数的に増大することは、17世紀にガリレオによって指摘された構造原理であるが、この自然原理を逆にスケールを小さくする方向にたどっていくと、小さな建築(住宅程度のスケール)では、構造のシガラミを離れた自由なデザインの可能性が極めて大きいことが示唆される。
 しかし、この原理を十分に理解した上で、デザインの自由度を高度に活かした設計は、現実には決して多くない。

 イースタンの建築家たちは、住宅建築のスケールの構造が持つ造形の自由度を、節度を保ちながら巧みにエンジョイしている。彼らは不必要な構造は捨ててしまえ、というのではなく、日本の都市に多く見られる、あまり恵まれない敷地の中で、建築の存在をまずRC外壁で主張し、これを構造の基本と考える。
 彼らは、この壁面上に自由でランダムとも思える曲線を描く。これらの曲線群のうち、近接する一対の曲線の内側の空間をネガティブと考えると開口部が得られ、ポジティブと考えれば部材が得られる。 
 この「陰」と「陽」の存在を巧みに操って、彼らは建築の外郭をデザインする。この「陰」と「陽」のデザインは、壁面のみに留まらず、屋根面に及ぶこともある。こうして外郭につくられた開口は、常識的なプロポーションの「窓」とは全く異なる表情を示すが、外壁の重要なデザイン要素であると同時に、十分な外光を室内に取り入れながら、プライバシーを確保するという、開口本来の機能を果たしている。

現在、平面に限定して行なっているデザイン手法を、将来のイースタンが曲面にも拡張するのか否かは分からないが、いずれにせよ、イースタンの二人の建築家が、日本の伝統に裏打ちされた優れた造形的感性と、確かなスケール感覚を活かして、独自の卓抜した建築の世界を作り上げることは、疑いないであろう。


【ESSAY】

イースタンの名の由来

 月が皎々と照り、不変の群青の夜、ある者は自己にかなう存在の仕方をし、ある者は不満のまま死んでいくのか。その定められた場所をあまねく照らす、きらきらした東方に、明けの明星が見える。イースタンの名の由来である。



Into the Forest
 森へ入ったときにおこる私たち建築家の感情を語ろう。葉の隙きまをぬける光、葉に反射する光、うすい葉を透過する光、下草をすべる光、幹にあたる光。小さな片栗の紫。
 静けさが照葉の光をすぎて、風が流れ、葉音が鳴る。鳥の声が動く。下草が動く。土の湿り気を踏むと自分の息づかいがする。遠く川が流れる。
 光が私を貫く。見ていて気持ちがよくなる光がある。感覚が広がっていくような光がある。なにかをもっと知りたいと思う、この瞬間を忘れたくないと必死に見る光がある。
 そのうち、たったひとつの光をも私たちはつくることはできないのだ。



スリット

はじまり
小さな隙間と太陽が正面から向き合い、一本のはっきりとした光の筋ができる。その瞬間に感動した。それが、スリットで建築をつくろうと思った動機だ。
たくさんのスリットを刻み込むことによって、建築をつくる。スリット「だけ」で、建築をつくる。それは、だれもやったことがない、初めての試み。
 人が生き、そして死ぬところだから、建築は本来、感性的なものだ。スリットには、人の心を掴む力がある。
はっきりした光、光の濃淡、部分的な闇、彫刻的な光から生まれる効果の多様さ。生活の中で、自然をはっきりと感じることができる方法。都市に生きるための解決策。それが、スリットである。
そこには、太陽の動き、眺めの変化、そして、静けさがある。

午前11時
スリットの家には、特別な時がある。

夜明け、スリットから入り込む、淡い光。全体がほの明るい。
午前9時半、スリットの小口に反射する、弱い光の連続。
午前10時半、まず斜めのスリットを太陽が貫き・・・
午前11時。全部のスリットに、太陽が突き刺さる。
スリットを貫く太陽、小口を反射する光、2つの光がV形の筋を長い廊下に落しこむ。この鋭い光の反復を見ると、11時という時刻が止まってしまうかのような感覚になる。
・・・10分もすると、小口を反射する光が消える。スリットがつくる光のかたちは、V形から1本の筋に変わる。斜めのスリットは、太陽が貫く瞬間が、まっすぐのスリットとずれる。
斜めのほうが少し早い。その一瞬のずれが、太陽の動きを知らせ、やがて来る日暮れの時を予感させる。次第にその光の筋が短くなっていく。そして、再びあわい光だけの柔らかな明るみ。・・・やがて夜がくる。





「みる」
 水平スリットの家には、変化する風景がある。
 水平スリットは、同じ高さでも、目線の位置を動かすことによって、まったく違った風景がみえる。立つと、向こうの川と集落がみえる、座ると、山がみえる、寝転ぶと、空がみえる。スリットから覗いたその先にまたスリットがみえる。視線の連続によって、様々に切り取られた風景を発見する。風景とは、みるという働きかけによって生まれるものだということに気づく。
 スリットは、開口がぎゅっと凝縮されていることによって、みえる風景を強調する。「みる」というあそび。
 水平スリットの家は、外からみると家にみえない。石垣と連続する擁壁のようだが、中に入ると、スリットごしにみえる風景の連なりと開放感に驚く。
もしスリットの向こうに鳥が見えたら、その行く手を追って首を動かし、私たちは風景を追っていく。家は風景に包まれている。スリットがまわる。ぐるりと見渡す展望のなかを鳥が飛んでいく。

方法
 土地と人間の生活の潜在的な力を最大限に引き出す、シンプルなかたちによる建築をつくる。それは、はっとするような解決策と、大胆な構成と、しっかりした造形をもつ。
 そのかたちに、スリットを刻む。一本一本を、確かに必要だと思われる場所に配列することによって空間をつくる。一刀彫りの裂け目が、かたちをより強調する。
 光と影、生活の気配をスリットから垣間見る。スリットから差しこむはっきりした光が、動き静まりかえる。止まったような瞬間と、流れる時を見る。それは日常のなかにある感動である。
 スリットを刻むという方法は建築を原点から考えることから生まれた。この方法は、空間の作り方をそのまま建築に保存する。
 スリットは、古代からつづく人間の感性に響く方法であり、同時に、現代の諸問題に答える応用力をもつ。






Form
形が大事なのではなく、形を介して見る自然の豊饒さこそが大事なのだ。
 例えば、1本の椿(つばき)、流れていく雲、木々の光、緑なきところの光。それら大事なものを定め、こういう姿勢で見る、その具体的な宣言が建築の在り方だと思う。椿と雲を見、そこにしかない光を見、全身的にそれを感じる場所をつくるのが建築である。イースタンの形が明快なのは、建築のうちに住む人間にとって大事なものが明快だからだ。


八窓軒

 a-1

 優れた建築は、象徴の力で人と自然を近づける。

 a-2

 京都の曼殊院に「八窓軒」がある。妙喜庵にある利休の待庵の2畳敷の原初とは異なり、3畳大に文字どおり、8つの窓がある。
 ――現代風に言えば、8つの窓は不規則に配置され、どれも形が異なり、1つは天窓である。

写真でも、文章でも、この茶室の感覚は伝えにくい。沈潜とした空間ではなく、とても明るい。
 8つの窓は、庭がわに集中している。一方、窓のない壁は烏賊墨の黒塗りで、その黒さによって8つの光が際立ち、明るい。天井はその意匠を、庭の東と黒壁の西に真っ二つに分かつ。
 8つの窓は、庭の〈自然〉に反射する光があたる。だから、庭に緑が繁っているときには窓は緑色に、秋、庭が紅に染まると、窓も赤く色を変える。

 人が8つの窓を背にして座る。自分の姿が8つの逆光のなかへ沈む。そこは斜めの屋根の下である。
傾斜した造形が逆光の放下に自分がいることを教える。そこに、月見の窓から光も差しただろう。

 主人は、織部好みのモダンな菰の天井の下に座る。黒い壁を背景に、茶人の肖像を見るような案配だ。
 すると8つの光が、人間の顔をギリシャ彫刻のように照らしだす。きっと、主人の茶の手が、空間のなかにはっきりと、しかし妖しくうごめく。――人間が感じるものに対する異様な執着を感じずにはおれない。

 茶室は庭の中心に、岩々と砂、樹木と草、苔の配置された空間の中にある。目を手もとからあげると、8つの窓が自然と時間をうつし、ゆらゆらと茶室を染めあげる。青く、赤く、白く、虹窓の変化が不思議な感覚を実感できる。
 静けさに、外の動きを聴くのが自分であるのか、内に座し、自然の動きの一部となった自分だろうか、内と外の目身体を離れてゆくようだ。8つの窓は窓だろうか、8つの〈リズム〉が内と外を織りなし、自然と時間が私を通過する。見えないものを見ようとする技法がこれほどはっきり感じられることが建築的である。視野の哲学がはっきりしている。

 八窓軒は、現代建築のような物理的な透明性はいっさいない。がしかし、外の環境〈生命力あることを証明しうる範囲内〉を全身で感じとる。ここでは、身体が大地とつながっている。

 a-3

 曼殊院八窓軒(1656)」の作者は、桂離宮を造営した初代八条宮智仁親王の次男、良尚法親王である。しかし八 窓軒は、貴公子的な離宮ではない。門跡にある。八窓軒は、中世の仏法の系統をつぐ寺院の茶室であるから、宗教とは別の、しかし祈りの直前の、見たいものを見ようとする、居ずまいを変えようとする人間の強い緊張がある。八窓軒が現代の私たちの心を打つとはどういうわけか。
 現実の苦悶が決して解放されるものではないところに宗教や思想が成立するが、外界の苦悶がたとえ凄惨であっても、建築は、現実のうちにその解放の場をつくりうるという具体世界の強さがある。宗教化、思想化される直前の同原を、建築は象徴として捉える。それを神殿といい、庭といい、城、とりでといい、伽藍、茶室といい、また、我が家という。
 見えないものを見ようとする本体は、苦悶や闇、時代と社会の潮流に自らが衰えぬ、劣化させてはならぬという強い本性である。同原は、潮流に傍流しないと、社会へ反逆する表示である。そこに形をうる。したがって、はっきりした形から同原へ遡れる。作者が意志する内容がはっきりしているからそれがわかる。

 a-4

 建築が捉える象徴とは、人間性に内在する同原によらねばならない。自分の身の強い本性こそ自然が人間に与えたものであり、それを自覚することが理性にかなう。

 人は場所と身体のつながりを欲する。象徴は分断された場所と身体をつなぐ。だから人間は象徴を求めるのである。



地勢を守る

 1

 建築をつくることは、感情が動くものをはっきりと定義し、その大事を定めたものを、いかに正しい存在として創造するかである。その方法は、形を通じて迫る他はない。

 現代建築は地勢を守るという役割を失っている。ガラス建築に代表される軽さの潮流が、大地と人間の親密な関係を失わせたのだ。現代はなにを見ないといけないのか、ということを定めていない。「これをこういう姿勢で見るのだ」という宣言が本来の建築の在り方である。

 2

 〈見る〉とは、相向きあう地勢へ迫る全身的な行為を意味する。

 見る ⇨ 招く ⇨ 守る

 〈見る〉ものを定めることは、自然をみずからの内へ〈招き〉入れる独自な感情にしたがうとせねばならない。その感情を〈守る〉ために、その場所に在る自然の動きを〈用いる〉。それが場所へ〈通ずる〉ことであり、独自なものを革新的に〈うる〉本である。

 そのように、建築は、人間が一人格の私有権を主張するつながりをつくる。場所と人間のつながりは、形がもっとも強い〈守り〉である。――そこに回復している強い本性こそ自然が人間に与えたものである。それを見極めることができるものが独自な芸術と言える。私たちの芸術の関心事である。

 3

 地勢は、〈生命力を証明できる範囲内〉である。〈季節を通じてめぐり来るもの〉がそのなかに在る。そこで私たちは、個々人の生活の具体性に通ずることばを使い、相対してゆける。なぜなら、人は、地勢の事実に即して、自分の好きな視野と触覚を丹念に相対応させており、その把握は、全体的な視野であるにもかかわらず、はかりがたく個的なものであるからである。

 4

 地勢のうちでもっとも幸せな場所は〈庭〉である。庭とは、人が象徴的に愛するものがあるところをいう。
 まず大事なことは庭である。そこに独りの人間が他者や世間から〈守って〉いる独自なものがある。
 ――それは例えば、一本の「椿」である。感情を生む根本である。庭へ出入りし、椿を見、全身的にそれを感じる場所をつくるのが建築である。
 庭のうちにある強い本性が、自然を本にするときには、そこへつくる形は、「椿とともに定義された」地勢的な直覚 となって、「可能な範囲内においてつづく」通路を経る。その通路が住居である。

 したがって私たちの建築は、〈通路〉を家の内部へ通し、そこへ〈開口〉を刻する。そこに独自がある。
 私たちがつくる建築は、「生命力あることを証明しうる範囲内」を全身で感じとる。身体が大地とつながっている。

 庭 ⇨ 開口 ⇨ 通路

 地勢に刻されて在る、庭、古道、つきあい道、その形。人間と棺桶と祭りと神の通り道がつくる形。

 その形を家の内部へも招き、〈通路〉とせよ。それがひらくということでなくてはならない。

 一人格を象徴するものは自然の動きである。開口の形を通じてそれを招け。〈具体性を追う通路〉を復活させよ。  ――それが建築の役割である。



木漏れ日を望む

 私たちの建築は、木漏れ日を望む。

 望むとは、強い関心とひとつになること。じっと見つめる。遠くを見る。覗き込む。それは、あらん限りの力。満ちて来る自問である。人間の嘆きと願望である。


 望むという行為は、激しく内にこめた感情を宿している人間の姿である。自分の在り方が守られていないようなところで、一体だれが心を開くというのだろう。

 開口をつくる行為は、見えなくなりつつある望みを、再び定めることだ。そこへ入って来るもの、その先に望むものをもう一度見ることであるからだ。そして、私たちは気づく。建築が動くものと向きあえるだけの、静けさを宿していることを。

 私たちの建築は、がっしりと重く、しかし動きがある。そしてはっきりした形がある。その内から望むものが動くのがわかる。それは、1本の椿、流れる雲、鳥の群飛、木漏れ日である。

 建築の設計とは、生命力あるものの姿を邪魔せずに、そのような形の在り方を探究することだ。もっとも少ない所作で、もっとも深く。




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