T邸


 1 幽霊と武家屋敷

 「こわい、こわい、幽霊がいる」
 改修前のこの家を見て、子供たちはそう言いました。

 私は、かれらの母です。私は建築家ではありません。私は施主です。今回は私がお話ししましょう。私たち家族が住む古い古い家の改修の話を。




 滋賀の真野(大津市)、琵琶湖から歩いて100歩。
 琵琶湖は日本でいちばん大きい湖です。古くは、「海」と呼ばれていました。

 この家は、日本の武家屋敷と同じ様式です。その風格は見てすぐに感じました。
 しかし、改修の前はとても暗く、私も、ほんとうに幽霊がいる…、とそう思った。





 その時のこの家の暗さが忘れられません。着物や、大きな仏壇、螺鈿(らでん)の机、扇子や帯、掛軸などが部屋の隅々までぎっしりと詰まり、光が入らなくなっていました。
 その贅沢の過剰が、逆に、何もかもからも見放されたように見えました。

 その売却話を、私の兄が不動産屋から聞き、とてもよい場所だからと、私たち夫婦にもちかけてきました。

 最終的に、私たちが買いました。…よくそんな気になったな、そう思うでしょうね。私もそう思う。

 この家に来る前、私たち家族はマンションに住んでいました。

 私は30代。結婚しています。子供が3人います。

 場所は抜群でした。家から湖まで100歩。…泳げる浜で、茫々(ぼうぼう)とした湖と山々が見えます。
 でもとても悩んだ。繊細な子どもたちを転校させて、その変化が裏目に出たらどうしよう。
 とても古い家、かれらが怯(おび)える。暗い生活は嫌だ。

 イースタンのふたり、つまり建築家たちと会った時、思いあまって私は言った。
 「兄に騙(だま)されているんじゃないかと思うんです」

 だから私は言った。…防犯は? 駐車場は? 床暖房は? 排水は? 古いから設備がいい加減では? 
 水はだいじょうぶ? キッチンは? 子供たちの成長に合わせて部屋はとれる? あの子たちがこわがらない? 寒くない?お風呂やトイレは清潔になる? 耐震はだいじょうぶ?

 ほんとに、幽霊が出そうよ…。

 がらっと変えるんでなかったら、私たちは、あの旧家の幽霊の中に居候(いそうろう)する新参者に過ぎない、突如そういう恐怖にかられた。

 建築家は、「あまり多くを望むことはできないかもしれない。でも、少なくとも、幽霊を退散させることはできます。ゴーストバスターズみたいに」。とそう言って、笑っていました。



 2 ゴースト・バスターズ

 それでは、改修の方法をお話ししましょう。

 イースタンの方針は、
■「新しく生きるために、必要なものは数えることができるほど少ない」
■「家もまた同じ。この家の大切なものだけを輝かせよう」

 そして、私がしことは、
 → 私は、マンションで持っていた不必要なものをどんどん捨てた。

 この家へ越して来たら、私は、波と遊んで、「海」を歩いて、この家へもどって来るんだ。そういう新しい私の人間像を、邪魔するものは必要ない。
 それがこの家に生命を与えた簡単なコンセプトだった。それが私のストーリーをはっきりさせた。

 まるで夏に、海の端にぽつんと置き忘れらた、美しい海の家のような飾りのなさ。それが私だった。
  • 床は、波間で遊んですぐに帰ってゆける。体についていた砂が落ちてもいいような。
  • 窓は、すぐに開けられる。波と家のなかをすぐに行ったり来たりできるような。

 深い陰影の中から眩(まばゆ)い光を見る。その様式だけを残し、強調して使う。そのようにイースタンは言いました。




 広い床、4枚の木のガラス戸、古い庭、白、ただ4つだけを用いてこの家はできている。

 この家は、武家屋敷と同じですから、形式的で、部屋が細かく仕切られて、なにやら暗い。私は、新しいリビングは南側を改造してつくる、と思っていました。
 しかし、イースタンは淡々と逆のことをしました。
 …最小限の手間で、みんなが集れる広々した部屋がとれるところは、北の庭に面した仏間と客間である、と。

 私たちの今の常識と違い、日本の古い家屋は、大事な庭と、庭を眺める広々した空間を北に持つものがある。
 その訳はこうです。
 …南から降る日が、北の庭の木々を照らす。その輝きを、深い庇の陰影の下から見る。かつての日本人がその美の様式を愛したことがあるのです。

 格子や欄間、床や仏間、建築家は、そういう細かい点に気を囚(とら)われることはなかった。それをとっぱらう。
 すると武家 屋敷の様式の中に含まれている実質の、古びないものが現れてきた。

 家が裸になって、まるで武士が、海の端のがらんとした座敷のなかで、心を裸にして、耳を澄ましているようだ。




 床の間や仏壇があったところにキッチンを置いた。縁側と内部空間との敷居をなくした。庭の開口部を広げた。
 そして、大きな4枚の木製のガラス戸をつけた。

 内部を真っ白にした。…白は、わずかな光でも明るく反応するから。湖に遊びに行く家ですからね…。

 深い庇の下を明るくする白。湖畔の白。
 広い床、4枚の木のガラス戸、古い庭、白、ただ4つだけを用いてこの家はできています。




 3 湖の音

 今の生活。私は隣の部屋へ行くように「海」へ行く。「海」に歩いて100歩の家。

 すぐに家に上がれ、すぐに外へ飛び出せる。みんなが砂浜から帰る。ジュースをちょっと飲みにすっと帰って来る。
 またすぐ出かける。私の呼び声も聞かず。かれらが残していく声、かれらが残していく砂粒が落ちている。
 ああ疲れたと言って床に寝転ぶと天井が白く光っている。砂粒と同じだと気づく。

 琵琶湖には波があるんです。知っていますか? 風が波をおこすの?

 この家のよいところは気取りがない。散らかしたってバランスは崩れない。
 カバンやランドセルや靴下を投げ出したままでいい。

 ■そう、栄華を再現することが私たちの興味ではない。
 ■シンデレラの靴が似合う必要もない。





 「海」と行き来するのに、ここではだれも玄関なんか使いません。かつてマンションに住んでいたときは、
 私は、玄関の鍵を架け、チェーン・ロックまで架けないと安心できないたちだったのに。今は、開けっ放し。自分でも驚く。

 近所のおばあちゃんと孫が、庭に入って犬のソックスを触り、子供たちの滑り台を勝手に使うこの場所。

 長男を叱ると、かれは、夜でも自転車で外に出て行ってしまう。前はトイレに独りでいけない子だったのに。

 旦那は家で服を脱いで、湖に泳ぎに行く。家と「海」とをつなぐ、敷地の南を通る「つきあい道」があって、かれの姿もそこの道の向こうへいく。

 この家に引っ越して来てから1年、私はまた仕事を始めました。幼稚園の保母です。平日は朝から夕方まで、
 時には夜遅くまで家を留守にします。以前は考えられないことでした。1分でも子どもから目を離すのが心配で、いつも子どもたちを目で追いかけていた。
 今は大丈夫。子どもたちは兄弟3人、私がいない時でも、時間を忘れて、家でめいっぱい楽しく暮らしています。

 春、旦那の誕生日には、子どもたちが紙吹雪でかれの帰りを迎えました。実は、旦那は防犯システム開発のメーカーの技師です!、カメラがどこにあるか気にしていた人が、今は鍵をかけることもなく、古くからの門を開けっぱなしで、のびのび暮らしています。

 この家は、私と家族との新しい関係と、そして、1人になる時間をくれました。
 イタチの過ぎてゆく音が、聴こえる。幽霊ではなく…、精霊の音が、聴こえる。

 この家は、湖からの贈り物です。

 パパがパンツで泳ぐのが恥ずかしいと、長男は言います。「私はぜんぜん気にしないよ」。私はここへ来たのを後悔しない。

 子どもたちの声を遠くで聴きながら、私は湖の波音を聴いています。



 建築データ:「T邸」

  • 所在地:滋賀県大津市
  • 敷地面積:439.50平方メートル
  • 建築面積:114.40平方メートル
  • 延床面積:144.53平方メートル
  • 構造:木造
  • 規模:地上2階
  • 用途:住宅
  • 施工:株式会社ミノベライズ プランニング
  • 写真:鳥村鋼一




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